郷に入らば郷に従え

 Allegro, Adagioなどイタリア語での音楽的表現を除くバレエ用語は、基本、すべてフランス語です。しかし、母音と子音のニュアンスも数も日本語とは異なり、聴覚的な周波数としても大きな違いがあるヨーロッパの言語をカタカナ変換して動きと関連付けてしまう場合、様々な弊害が生じます。

 例えば、バレエにおいて最も大切かつ基本であるPliéも、カタカナで発音してしまうと「プ・リ・エ」という具合に3音節に分割されてしまい、本来は2音節で音節同士が混じり合うような「プリィ・エー」とはまったく違う響きになってしまいます。

 言葉は振動で、その振動は身体と共鳴しますから、プリエは滑らかさを欠く屈伸運動のようになり、Pliéはその降り始め、降り切った瞬間、伸び始める過程における流れを、バイブレーションとして素直に喚起してくれるのです。

 長年の海外生活から帰国した時、東京にある某バレエ団のエトワールだった友人と一緒に食事をしたのですが、その友人が「バットマンが…」と言った時、私は本当にジョークではなく、てっきり彼が舞台で有名なアメリカン・コミックのヒーローBatman(バットマン)の役でも踊るのかなと思ってしまいました。
 BattementとBatman。カタカナにすると両方ともバットマン。しかし、バレエのBattementにもヒーローのBatmanにも「ト」を形成する母音「O」は存在しませんし、同じ母音でもBattementのaとBatmanのaは非常に異なる音です。
 敢えてカタカナで表現しても、Battementはバァッマァンで、どんなに耳を澄ましてもバットマンという響きは体ともステップとも全く共鳴しません。

 PlieやBattementと同じように残念な事が、CoupéやPasséでも起こっていると思います。クッペはまるでエスニック料理の名前の様でシャープさを欠き、パッセという発音からもこの動きの本質である通り過ぎて行く感覚が伝わってきません。もしカタカナにするのであれば、クペやパセと呼んだ方がそれぞれのエッセンスに近いと感じます。
 本来は「ストレッチされている」という状態を意味するTenduを、まるで足が潰れたかのような響きを持つタンジュと呼んでしまう事にも違和感を覚えます。Tenduはタンデュとしてインプットした方が、脚も足もちゃんと引き締まって美しく伸ばしやすくなるのではないでしょうか。

 神様は最初に言葉を創られたという話があります。加えて、日本は昔から「言霊」という概念がその文化に宿っている国です。
 ミシェル・フーコーをスラスラと読み、アラン・レネの映画を字幕なしで堪能するレベルに到達する必要はないですが、バレエの国の住人である時は、文化と知性の背骨でもある言葉に対しても敏感でありたいと願う事が、結果として踊りの純度も高めてくれるのではないかと考えます。

 たかが言葉、されど言葉。たかがプリエ、されどPliéです。