多くの素晴らしい歌手によって表現されてきたフロトーによるオペラ「マルタ」の中の「夏の名残のばら」ですが、個人的にはアメリータ・ガリ=クルチの歌唱が一番好きです。
歌の始まりと同時に音楽と寄り添い、以降、音と離れる事も音にのめり込む事もなく淡々と流れ続ける彼女の歌声には、聴いている者を催眠にかけるような心地よい静けさがあります。
曲との最適な距離感とでも言うのでしょうか。アメリータ・ガリ=クルチのパフォーマンスはある種の冷静さを保っているため、この歌がセンチメンタルになり過ぎる事なく優美に響いているのです。
感情ではなく感性で表現している - そういう気がします。
アメリータ・ガリ=クルチは、そのプレゼンテーションとデリバリーにおいて非常にエゴが希釈されたアーティストだと思います。実際、彼女はヨガや瞑想も本格的に学んでいましたから、芸術に関しても形而上学的な視点を持っていたのではないでしょうか。
この一曲にはそういう彼女のエッセンスとスピリットが、それこそ美しい一輪のばらの名残のように振動しています。
もともとはトーマス・ムーアによって書かれた詩からアイルランド民謡となった「夏の名残のばら」ですが、フロトーによってドイツ語でオペラへ組み込まれ、沢山のディーヴァ達によって今日まで歌われてきました。
日本では「庭の千草」としても知られているこの歌は、非常にシンプルなメロディーで展開するが故に、歌い手が歌詞の言葉一つひとつに奥行きと広がりを持たせる事を可能にする余白を残している曲だと言えます。
1963年のラジオ・インタビューで、マダム・ガリ=クルチは「テクニックは表現にパワーをくれる」と語っていますが、これは歌や演奏だけではなくダンスや採点競技にも当てはまる真実です。
テクニックは例えどんなに完璧だったとしてもそれ自体で完結する事も意味を持つ事もないのですが、表現したい事を表現したい形で届けるためには必要不可欠なツールなのです。
そういう意味でも、アメリータ・ガリ=クルチの歌唱は、美しいだけではなくテクニックと表現が相補的に作用している知性溢れるパフォーマンスです。
ピアニストを志して勉強していた彼女は、家族の友人でもあった作曲家のマスカーニの薦めで声楽家の道を歩き始める事になったのですが、それもまさしくアメリータ・ガリ=クルチがその素晴らしいギフトを多くの人達と分かち合うために起こった大きな力の計らいであり、運命だったのではないかと感じてしまいます。
アメリータ・ガリ=クルチという名前に馴染みは薄くても、アニメーション映画「火垂るの墓」で蓄音機から流れる彼女の「埴生の宿(Home Sweet Home)」の哀切極まる響きを覚えている方はいらっしゃるのではないでしょうか。
アメリータ・ガリ=クルチは、強く香り立つばらではなく、まさにばらの残り香のような甘美さを、その透明感溢れる歌声に乗せて漂わせる事が出来た稀有なアーティストなのです。